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猫と相撲と文房具(ときどき野球)。猫町フミヲの妄想の日々。


by nekomachi_fumiwo
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再び水面を歩き始めるために。

詩を書いてきた(そしてこれからも書いていく)人生も、本屋で働いた数年間も、失業してまるまっていた数カ月間も、そしてここ最近のありとあらゆる挫折も、どれも切り離したり、間違ったものとして殺したり、見なかったことにしたりせず、全部「込み」で私という人間として生きていく。
そんなあたりまえのことにようやくたどり着いた気がする。

自分のことを認めてくれる人たちだけの小さな世界じゃなく、本当にいろいろな人間が生きている「社会」とふれ合いながら生きていきたい。
それは自分というものをもっと知りたいからだ。
いくら内省しても、自分は見えてこない。
見えてきたとしても見えてきたような気がするだけで、それは多分に甘えを含んだいびつな自分でしかない。
私はそういうのは嫌だ。

大学生の時、ある教授が言った言葉をずっと覚えている。
「『世界』と『自分』との差異に苦しみ、傷ついた経験を通してはじめて自分を『個性的である』と言える」という言葉である。
自分が変わってるとか変だとか個性的だとか人は簡単に口に出すけれど、いくら自分が変であっても生きていく世界が自分を守ってくれたら、そんなのちっとも苦しくない。
苦しいのはそういう自分を認めてくれない可能性が大いにある世界に対して、ぽんこつの自分自身だけを頼りによろよろと切り込んでいくしかないという厳しい現実に直面してこそだ。
そしてそういう痛みをとおしてしか、私は自分自身を知ることができない気がする。

本当は大好きなことだけをして生きていきたい。
私のことを大好きだと言ってくれる人ばかりの世界で生きていきたい。
だけど私は自分をもっとよく知りたい。
詩を書いてきたのもそのためだったはずだ。
そしていろいろな人や社会とふれ合うことで新たに見えてくる自分は、きっと原稿用紙に向かっているだけでは見えてこない自分だ。
私はそういう自分に会ってみたい。
たとえずっと「変」なままの私であっても、自分を少数派だということでずるく守ったりせず、世界とのずれを痛みをもって知り続けていきたい。

弱い私はこれからも何度も近所の川に飛び込みたくなるだろう。
手首の上を走る刃を想像したりもするだろう。
同じことで何度も苦しみ、逃げ出したくなるだろう。
だけど同じことをやっているように見えて、実は私は以前よりもちょっとだけ上にいる。
ちょうど螺旋階段を昇るように。
ぐるぐるぐるぐる回り回って傷つきながら、それでもまだ出会ったことのない自分に出会えるのなら、私は階段を昇ろうと思う。

それは私が真の「自分大好き」だからだ。
by nekomachi_fumiwo | 2006-01-24 23:30 | 日記